槌賀家住宅
所在地 兵庫県南あわじ市賀集鍛冶屋
主屋 桁行10間、梁間6間半、2階建、入母屋造、四面庇付、西面便所付属、本瓦葺 江戸時代後期 長屋門 桁行8間、梁間2間、切妻造、背面庇付、本瓦葺 江戸時代後期 新座敷 桁行6間、梁間3間半、2階建、切妻造、南面・東面及び北面庇付、本瓦葺 明治44年(1911) 土蔵 土蔵造、桁行5間半、梁間2間、2階建、切妻造、正面庇付、本瓦葺 明治時代 兵庫県景観形成重要建造物
槌賀家は淡路島南部に広がる三原平野の南寄り、南あわじ市賀集鍛治屋の旧家で、初代がこの地に居を構えたのは元禄年間(1688~1704)の初めと伝える。当初の生業については史料を欠くが、嘉永2年(1849)の家相図(「屋敷宅相図」)に酒造関連施設が描かれており、この頃には農業の傍ら酒造業を営んでいたことがわかる。また大正期には周辺に多くの土地を所有して農地経営を行っており、この地域の有力な地主であった。
屋敷地は南北に長い矩形で東と南に道路が走り、長屋門が敷地の南寄り、道路からやや奥まったところに南面して建つ。この後方には主屋、さらに新座敷が配され、また主屋と長屋門のあいだには土蔵が西面する。これらの建物に対し、屋敷地の西寄り及び南寄りは畑地が広がり、両者は石積土塀で区画される。なお、新座敷の西には離座敷(ヒヤ)が近年まで建っていたが、台風で被災し現在はない。

主屋は桁行10間、梁間6間半の大規模な建物で、上屋の四周に幅1間の下屋がまわる。淡路島ではこうした上屋と下屋で構成するつくりは「錣(しころ)」と呼ばれ、一般的である。屋根は入母屋造で棟には越屋根形式の煙出しを置き、上屋・下屋ともに本瓦葺とする。建築年代については、家相図に描かれた主屋と規模・間取りがよく一致し、また確証はないものの主屋のものとする文政12年(1829)の棟札が残る。部材等の状況からみてこの棟札が主屋のものである可能性は十分に考えられ、19世紀前半の建築と判断される。
建物は整形の六間取り平面で、西寄り床上部は正面側にヒロシキ・ブツマ・オモテの3室を配する。オモテは接客用の座敷で背面に床と棚が付き、南・西側には榑縁・切目縁がまわる。さらにその前面には門と塀で囲った庭が広がる。またブツマは仏壇を備え、正面は下屋を取り込んで小部屋とするが当初は縁に復され、正式な玄関であったという。背面側にはオマ(居間)とオク(寝室)2室の計3室が並ぶ。東寄りの土間部は大きく改造されているが、元は手前玄関土間に唐臼場が配され、また奥の台所土間には板間6畳及び3畳が張り出して土間境に竈が築かれていた。
この主屋は上屋柱がほぼ1間おきに立ち、さらにブツマとヒロシキ境の中央にも柱が残る点や、2階の梁が上屋柱の頂部に載る折置組とするなど、年代の割に古式な手法がみられる。またヒロシキは板間に復原され、土間境も開放となる点は興味深い。淡路島では古くは広間型の三間取りが広く分布し、広間からヒロシキが分離して現在の四間取りが成立したと推測されている。この主屋はそうした三間取りから四間取りへの変化過程を示すもので、淡路島における民家の発展を考えるうえで貴重な遺構である。

長屋門は主屋の正面、屋敷地の東南隅に建つ。家相図では屋敷の南を通る道路はまだなく、この位置には桁行9間半、梁間2間で納屋や牛馬室などからなる長屋が建っていたが、明治初めに道路が開通したのを機に長屋に門が新たに開けられた。これが現在の長屋門で、19世紀前半頃の建築と考えられる。桁行8間、梁間2間の長大な建物で、背面に幅1間で吹き放ちの下屋を通し、屋根は切妻造として上屋・下屋ともに本瓦を葺く。平面は中央寄りに幅1間半の門を開き、両側に物置3室を配する。当初に比べて桁行寸法が1間半短くなっているものの、保存状況は良好である。

新座敷は桁行6間、梁間3間半の2階建で、南・東・北の3面に幅1間の下屋をまわし、外壁は1階下屋部分を除き白漆喰の塗屋造とする。屋根は切妻造で上屋・下屋ともに本瓦を葺く。建築年代は普請関係史料から明治44年(1911)と判明する。内部は1階東側3間半及び2階を居室とするのに対して、1階西側2間半は蔵となる珍しいつくりである。

土蔵は年貢米を収納するための大型の蔵で、棟木に打ち付けられた棟札に記された当主名より、明治初めから半ばに建築されたと判断される。建物は桁行5間半、梁間2間の土蔵造2階建で、正面に幅1間の下屋を付し、屋根は切妻造として上屋・下屋ともに本瓦葺とする。内部は南寄り3間と北寄り2間半の2室に分かれ、南室は2階を設けるのに対して北室は吹き抜けとしている。
この住宅は、広大な屋敷地に主屋、長屋門、新座敷、土蔵などの建物が残り、この地方における地主層の伝統的な屋敷構えを伝えている。またこれらの建物が群として一体の景観を構成するものとして、兵庫県の景観形成重要建造物に指定されている。
