2015年11月3日、文化の日、前夜の雨も上がり、絶好の街歩きになった。今回は、池田市在住の緒方幸樹さんの案内で総勢8名参加の街歩きになり、北ルートのサカエマチ1番街・2番街の北進からのスタートとなった。
往時の面影が残る商店街は、やはり、シャッター通りで大半の店が閉店していた。一部で旧百貨店のRC建物をシェアハウスとして活用されており、若い世代の感覚を取り入れ活用を図っていた。外部スクラッチタイルと腰部の石張りを観察、建設時の輝きを思い浮かべながら、ほんまち通り商店街に出る。
能勢街道と西国巡礼道の街道交差点にて山麓交易都市として発展してきた池田について説明をうける。コミュニティセンターを北に上り、池田に好景気をもたらした池田郷の酒「呉春」の酒蔵を訪ねる。江戸時代の酒造家数は38を超えるまでに酒造業が盛んであったようだが、現在は呉春株式会社と吉田酒造㈱(緑一)の二軒になった。
ほんまち通り商店街に戻り、猪名川方面に向かうと赤レンガ積みの重厚な建造物が目に飛び込んできた、大正七年に辰野金吾が設計した旧加島銀行池田支店である、店主の計らいで、内部を見せていただいた。当時の金庫室や接客カウンターが当時のまま残っていた。後で、構造が木造モルタル2階建てと聞き驚いた。(2階床に鉄骨補強がなされていた。)
ほんまち通りを北進して、明治十年の火災後再建された吉田酒造(緑一)の主屋、蔵、塀を見学し、1700年代中頃の建築とされる近世商家の原型を残す稲束家住宅を見学して、池田城跡公園に向かう。
綾羽から急な階段を上り、西門から池田城跡公園に到着、櫓台に登り山麓交易都市を一望、模擬大手門を渡り、五月山の緑を配した池田城跡公園を後にする。
山麓を降ると小林一三記念館が見えてきた。能勢町にあった庄屋から移築したと伝えられている長屋門をくぐると、正面に鉄筋コンクリート造2階建ての記念館が喜寿を祝うかの如くどっしりと建っていた。玄関壁面には竜山石を配し、2階壁面は「ハーフティンバー」風に仕上げている。建造物は、竹中工務店の小林利助の設計によるものである。
敷地内には、小林一三が茶の湯を楽しんだ三つの茶室が配されている。「雅俗山荘」竣工時に造られた「即庵(そくあん)」、岡田孝男の指導により昭和39年に造られた「人我亭(にんがてい)」、昭和19年に京都の寺院より移築された「費陰(ひいん)」である。
小林一三記念館を後にし、昔、お堀の跡だという池田中学の水路敷跡を抜け、阪急池田駅に向かう。
休憩も取らず、南ルートに移る。「呉服」と書いて〈ゴフク〉と読むが、池田では〈クレハ〉と読まれる。織姫伝説があり、今から約1700年前に中国の呉の国から織物技術伝承のため渡来した織姫姉妹に由来している。
西進するとすぐに、池田室町住宅地が広がっていた。明治43年に小林一三が手掛けた第1号の宅地分譲地である。生活スタイルの変遷で、和風住宅に洋風スタイルの一間(応接間か勉強部屋なのか)を増築することが流行りになったのか、このような住宅を数か所見受けられた。
開発地の中央に地域の氏神である呉服神社が鎮座している。参道が開発道路と45度になっているのは、何か理由があるのか、伊居田(イケダ)神社との関係が興味深い。
池田室町住宅地の売り出し当時は、1区画平均100坪という面積だったそうである。道路も広く取り、明治の時代の都市整備としては先見の明があると言わざるを得ない。室町住宅地の街区を散策し、13,000歩の万歩計を確認し、街歩きを終える。
当日は、文化の日でもあり、市民の街歩きも盛んに行われていた。(文責:俵 嘉久)