2012年度 阪神地区活動報告

・尼崎市庁舎見学と村野藤吾展(2012年05月23日-水-)
・浜甲子園倶楽部見学会(2012年06月29日-金-)
・旧ジェームス邸見学会(2012年06月29日-金-)
・東リ(株)旧本社事務所見学と新年会(2013年01年19日-土-)

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尼崎市庁舎見学と村野藤吾展(2012年05月23日-水-)

現尼崎市庁舎は1962(昭和37)年に建てられた建物で、今年(2012年)で竣工50周年にあたる。また、旧大庄村役場(現大庄公民館)は、1937(昭和12)年に建てられた建物で、こちらは竣工75周年にあたる。これらの庁舎建築を設計したのは、関西にゆかりの深い建築家村野藤吾である。

尼崎市役所
これにちなみ、5/12~6/3、尼崎市総合文化センターで「建築家村野藤吾と尼崎展」が開催され、あわせて講演会や庁舎の見学会が行われた。

5月23日は、市役所庁舎見学会の日で、尼崎市役所東側の橘公園、花時計前に午後1時過ぎに集合、市教育委員会の学芸員の案内で庁舎や議会棟を見学した。
尼崎市役所庁舎は、低層棟、高層棟、議会棟の3ブロックで構成されている。

外観の特徴は、窓と柱の位置関係だろう。RC造のラーメン構造なら、たいてい柱と柱の間に窓をもってくるところ、窓は柱の軸線に重なるように配置されている。

尼崎市役所
また、庁舎の周囲に堀のような池が配置されているが、尼崎が城下町であったことを意識したのではないかと考えられている。南側から庁舎を見たとき、高層棟の姿は、地図の「城跡」記号に見えなくもない・・・

庁舎をあとに尼崎市総合文化センターに移動する。京都工芸繊維大学の協力のもと、旧大庄村役場、尼崎市庁舎の計画案から最終案にいたる図面やスケッチ、模型などが展示され、また、市長の机や椅子などの什器類も並べられていた。

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浜甲子園倶楽部見学会(2012年06月29日-金-)

浜甲子園倶楽部浜甲子園倶楽部見学会は例会を兼ねて行われたが、平日の開催であったため参加者は6名にとどまりチョッと寂しい見学会になりました。

春・夏の高校野球や阪神タイガースのホームグランドで知られる甲子園球場、そこから南西に1kmほどのところに浜甲子園地区があります。

浜甲子園倶楽部

このあたり、かつて武庫川から分岐した枝川(えだがわ)、申川(さるかわ)が流れていた。武庫川の河川改修工事をすることになり、これらの河川跡地を売却することで費用を捻出することにした。

それに手を挙げたのが阪神電鉄だった。河川跡といっても天井川だったので周囲の土地より地盤が高く、開発できるとふんだようだ。

大正12(1923)年、阪神電鉄に払い下げられ、翌大正13年に甲子園球場が完成する。その年の干支が「甲子(きのえね)」だったので、それにちなみ「甲子園」と名付けられたのは有名な話。

海岸に近いこの辺一帯は白砂青松の好散策地であったので、翌大正14年には甲子園海水浴場が開設され、さらにテニスコート、陸上競技場、競馬場などの施設整備が進められていった。浜甲子園倶楽部

翌大正15年には甲子園駅と浜甲子園の間には路面電車も走るようになる。そして、宅地は海岸に近いことから「健康住宅地」として開発され、いまの浜甲子園地区の住宅地が形成されていった。

さて、浜甲子園倶楽部は、建て替えられた家々も多いなか、戦前に建てられた古い住宅が点在する浜甲子園地区のなかほどにある。当時の販売事務所兼モデルルームとして、昭和7年に建てられたそうだ。

シンプルな外観に対して、階段の装飾的な造りや浜甲子園倶楽部アーチ形の扉、野趣ある露わしの梁など洋風が取り入れられなかに、和室も設けられ、和洋が融合した戦前のモダンな住宅だ。

倶楽部の泉会長の案内で倶楽部会館はもとより近隣の古い住宅や会長の自宅まで(外観だけ)各建物の時代考証など各自意見交換しながら廻りました。

健康幼稚園 最後に、倶楽部隣地に建つ浜甲子園健康幼稚園があります。園庭に直径1.5m程の木の中を繰り抜いた4m程の大木が遊具として置かれてあり、それはこの幼稚園の名物の一つになると思い会長に解説説明を貼り付けるともっと皆が注目し愛着が出るのでは、と提案しました。
この幼稚園の「健康」の文字に、「健康住宅地」として開発されたなごりをみた。

 

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** 西宮まちたび博2012 **
《とっておきの〈にしのみや〉をお見せします

・西宮・まちを旅する博覧会(略称:西宮まちたび博)というイベントが9月15日にスタートした。西宮市・商工会議所などの団体でつくられた西宮まち旅博覧会実行委員会が主催、西宮市内全域を会場に、9月から来年2月まで、秋・冬の2期に分け、「西宮まちあるき」「西宮まちなか体験」といった合計90以上のイベントが予定され、スタンプラリーなど関連イベントも行われている。

・地元ガイドさんと歩いてめぐる「西宮まちあるき」というプログラムの案内役に、H2O阪神のメンバーが協力している。

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・8月31日(金)に行われた「西宮まちたび博2012」のプレイベントの様子について、藤原義照さんからの報告です。

このイベントは、夙川で優雅なひとときを楽しむプログラム【山本清住宅とヘルマンハープの体験 そして夙川の名店ランチをどうぞ】というもので、「アサヒファミリー」の35周年特別企画、西宮市とタイアップして行われた。

西宮たび博 8月31日(金)の暑い中20数名が参加され約1時間にわたり私が案内説明しました。参加者は、女性、それも熟女が殆んどで、展示品には茶道の道具が多く、それらに興味を引いたみたいでした。

そして、建物の方は屋敷が大きいのと設備の先鋭的なところ(トイレが当時から水洗であったこと、湯沸かし器が設置されていたこと)、蔵の扉が金庫の扉様なのに又ビックリのようでした。

西宮たび博 私としても初めてのことなので、どの程度の説明をするかが判らず、チョッと時間が押してしまいました。これからも度々開催されるようなので、機会があれば参加者の雰囲気を早く掴み臨機応変に対処したいと思いました。

 

 

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・旧ジェームス邸見学会(2012年06月29日-金-)

旧ジェームス邸 旧ジェームス邸がブライダル施設兼レストランとして再生されることになった。見学会が行われたのは、この建物を手がけた竹中工務店の手で本館の補修工事とチャペル、バンケット新築工事が急ピッチで進められているさなかであった。

神戸塩屋に通称ジェームス山と呼ばれる見晴らしのいい閑静な住宅街がある。この名称は、神戸でカメロン商会を経営していた英国人貿易商アーネスト・ウィリアム・ジェームス氏にちなむもので、彼は、このあたり一帯を1930(昭和5)年から34年にかけ、高低差を活かした緑豊かな住宅地として開発し、外国人専用の賃貸住宅を経営した。

当時の住宅で唯一残っているのが1934(昭和9)年に建てられた旧ジェームス邸である。竹中工務店の早良俊夫の設計によるもので、RC造2階建、スパニッシュスタイルでまとめられた大邸宅で、中心部に円形の塔を持つ。かつては、塔の尖端にはユニオン ジャックがはためいていたという。

ジェームス氏が亡くなったあと、1956(昭和31)年、三洋電機の創業者井植歳男氏が買い取り、居宅として住まわれたあと、三洋電機の迎賓館として使われていた。

本館は、結婚式の行われる週末は新郎新婦、親族の控え室、平日はレストランとして使用され、眺望のよい広い敷地にチャペル、プールの跡地にバン旧ジェームス邸ケットが設けられる。

建物が建つのは第一種低層住専地域であるため、建物を商業施設として活用するためには、神戸市の文化財指定を受けることで建築基準法の適用除外規定を受けて、また、増築部分に関しては、公聴会を開催し、住民の賛同を得て実施に移されている。

当日は、県教委の村上裕道氏と竹中工務店の松隈章氏の説明が行われ、H20阪神の山崎誠氏の案内で工事中の現場をまわったのであった。

旧ジェームス邸 旧ジェームス邸
旧ジェームス邸 旧ジェームス邸

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・東リ(株)旧本社事務所見学と新年会(2013年01年19日-土-)

東リ 伊丹市にある東リ(株)、その前身は、由多加織という敷物の製造会社である。金沢出身の寺西豊太郎が、1880(明治13)年頃に稲わら繊維を使った敷物「由多加織」を発明し、金沢で製造を開始した。その後、1889(明治22)年に伊丹に移り、由多加織合資会社として1891(明治24)年から生産をはじめ、神戸から海外に輸出されたりした。

豊太郎の末弟福吉は、その頃、神戸でリノリュームを見たらしく、工場内で研究をはじめた。1915(大正4)年からリノリュームの製造を始め、1919(大正8)年に東洋リノリユームを設立し、現在にいたる。いまは、リノリュームの生産こそやめているものの、床材などの老舗である。

会社設立と平行して新工場の建設が行われ、1920(大正9) 年に竣工する。現在、東リ旧本館事務所として残されている木造2階建て下見板張りの建物は、このとき建てられたもので、設計は、大ビルや綿業会館などの設計で知られる渡辺節である。

東リ  建物は、伊丹市景観重要建造物に指定されている。現在の建物は、当初建てられた位置から曳き屋され向きが変わり、付属の平屋部分が撤去されたりしているが、概ね建設当初の姿を保っているようだ。

現在、1階は、東リの歴史を示す資料やこの建物や設計者渡辺節のことを紹介するパネルなどが展示されている。

東リ  東リ工場敷地内にある笹原稲荷、乃木大将の胸像、黄金塚古墳を案内してもらったあと、工場をあとにし、伊丹の中心地のほうに向かう。伊丹と大阪をつなぐ街道を進むと、ところどころに古い町屋が残っている。  白雪ブルワリービレッジ長寿蔵でH2O阪神の新年会が行われる。

 

 

旧安田邸の活用を考えるシンポジウム報告

~近代洋風住宅の補強と活用について~

-地域文化財建造物の維持活用のために-

2012(平成24)年11月18日(日)、宝塚市雲雀丘にある旧安田邸の見学会と保存・活用を考えるシンポジウムが開かれた。

安田邸【雲雀丘と安田邸】 雲雀丘は、宝塚市の東端、川西市と接する長尾山系の南側斜面に開けた住宅地である。明治時代には果樹栽培が行われたりしていたこの地域が住宅地として開発されるきっかけは、1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が梅田-宝塚間を開通させたことにある。

大正時代になると第一次世界大戦の好景気を受けて、阪神間に土地開発ブームが起き、私鉄沿線を中心に宅地開発が広がる。ここ雲雀丘の住宅開発は、阿部元太郎が1915(大正5)年に10万坪の土地を購入したことに始まり、翌年から逐次宅地開発が進められていった。

「雲雀丘」という名前は、西に流れる滝ノ谷川にある「雲雀の滝」にちなんで、阿部がつけたといわれる。最初に設置された花屋敷駅から数百m離れた位置に設けられた雲雀丘駅は、住人の利便をはかるため、阿部が設置したものである。(1961(昭和36)年、雲雀丘駅と花屋敷駅が合併されて、雲雀丘花屋敷駅となった。雲雀丘駅は、現在の雲雀丘倶楽部の位置にあった。)

旧安田邸は、1921(大正10)年に建てられた木造3階建ての洋館で、宝塚市の都市景観形成建築物に指定されており、「ひょうごの近代住宅100」にも選定されている。この建物は、三井物産に勤めていた安田辰治郎氏の邸宅で、渡米経験で見聞したアメリカの住宅を手本に、自身で設計されたものである。この建物の所有者だった辰治郎氏の娘敏子さんが亡くなり、その遺志により、2010(平成22)年、宝塚市に寄贈され、いまは、宝塚市が管理している。

故安田敏子さんから遺贈された土地と建物の保存、活用にあたり、2011(平成23)年9月、自治会「コミュニティひばり」のなかに、「歴史的建造物復興’宝塚浪漫物語’」という組織が結成され、地域の有志、宝塚市政策室、有識者で構成される委員会が、建物の保存、地域文化の拠点としての活用にむけた協議を行っている。

見学会【見学会】シンポジウムを前に、旧安田邸の見学会が行われた。阪急宝塚線雲雀丘花屋敷駅から歩いて5分もかからないところにあって、約460坪ほどの広い敷地、大きな木立に囲まれたなかに建物が建っている。築90年あまりたつ建物は、雨漏りなど応急修理的な補修は行われているが、不等沈下によるとみられる1階床面の傾斜などあり、かなり傷んでいる。2、3階は立ち入りが制限されるほどで、抜本的な改修工事が急務である。

【シンポジウム】雲雀丘花屋敷駅近くにある雲雀丘倶楽部で、シンポジウムが行われた。

基調講演  まず、三重大学の花里利一教授から文化財建造物を地震災害から守る、ということに関して「構造診断の意味」という講演があった。  木造住宅が地震によって倒壊するいちばんの原因は、1階の壁の偏在や壁量の不足といったことがあげられ、とりわけ、建築基準法改正前の1981年以前の建物は、甚大な被害を受けやすい。

法律における基準は、災害によって大きな被害がでるたびごとに改正されてきた経緯があるが、文化財建造物の耐震補強の基本的な考え方は、ほかの建造物と同じで、人命に重大な影響を与えないようにすることが目標となり、そのためには、文化財としての価値を損なわないように、補強する必要があり、補強が困難な場合には、立ち入り制限などの措置をとらなければならない。

文化財建造物の耐震化を検討する場合、文化財的判断、構造物として工学的判断、建築物として社会的判断といった、3つの視点をふまえて、耐震診断、耐震補強計画が求められる。  町屋や社寺など具体的な建築形態ごとの構造特性や注意点、そして、地盤、軸組、接合といった部位別に補強方針が説明され、具体的な補強計画が示された。

基調講演次にNPO法人ソーシャル・デザイン・ファンドの代表理事金森 康氏より「安田邸の改修及び維持資金について」という講演があった。

建物を保存改修するにあたりいちばん肝心な資金調達について、どのような方法があるのか、という説明から、その調達可能性に言及し、金額の大きさから、財団の助成を求め、維持資金としては、寄付付き商品の売り出すといったことを、自身の経験をふまえ、活動紹介ビデオを駆使しながら説明された。

財団の助成を引き出すためには、財団助成の主旨を理解し、建物の活用をはからなければならない。  また、助成を受けた側のマナーとして、事業の維持、継続といったことも十分に考え、維持費の自主財源確保も含め考えておく必要がある、とのことであった。

財団助成の主旨に合致する旧安田邸活用に関して、子どもアート空間への改修、音楽や芸術を楽しむ「空間貸し」事業、といった提案された。

パネル パネル

ひきつづき、明石高専八木雅夫教授をコーディネーターに迎え、講演された花里教授、金森代表に加え、歴史的建造物復興’宝塚浪漫物語’の佐野行俊委員長、アーバンプランニング研究所の三宅 毅取締役に加わっていただきパネルディスカッションが行われた。

シンポジュウム シンポジュウム

佐野委員長からは、安田家の家系図の紹介などなされ、また、三宅取締役からは、雲雀丘地区の古い建物の建て替え、開発状況の説明や旧安田邸の建物調査のあらましについての話がなされた。

ハード面での建物改修、耐震化、ソフト面での資金調達、建物の維持管理に必要な継続可能な事業展開、お互い協力しあい、旧安田邸の改修、活用を進めていこう、という結論に達したのであった。

平成23年度 阪神地区活動報告

■平成23年度 第1回定例会(研修会)

山本清邸1 7月30日(土)の午後、にわかの夕立の中、徒歩・自転車・車というようにバラバラな手段を使って、山本清記念財団会館(旧山本家住宅、昭和12年、国登録文化財)に13名が集まった。まず、記念財団会館の中を自由に見学した。今回の講師でもある山崎さんに、案内していただき、ところどころで解説をお願いした。
 特に、鉄筋コンクリート造の蔵の中は、初めての参加者も多く、興味深く見て回った。
 次に茶室を見学し、庭を見て回ったが、予定時間は少し過ぎていた。

山本清邸2 山本邸

 浦邸

 山本清記念財団会館を出て、道路を挟んで向え側に建っている浦邸(設計吉阪隆正、昭和31年、国登録文化財、DOCOMOMO Japan 150選に選定)に向った。

 こちらでは、稲上さんの案内で、玄関内まで入ることができた。
 山本清記念財団会館と浦邸は西宮市の景観形成建築物に指定してもらうべく会員が動いている。

 さて、見学を終えた参加者は、山本清記念財団会館に隣接する「夙水苑」に向った。
「夙水苑」は西宮市が経営する施設で、今回、会議室を借りて、会合を開くこととなっている場所である。会議室は15名程度が入れる部屋で、建物自体が新しいので、室内は結構きれい。
 早速、今回の講師の山崎さんと稲上さんから講義を伺った。テーマは、「登録文化財の登録申請について」である。今回の資料は90ページ近い分量があった。

説明会
 まず、山崎さんから、資料に則って説明があり、ついで、稲上さんから浦邸の資料をもとに説明を伺いました。その後、2~3の質問が参加者からあり、山崎さん・稲上さんから応えていただきました。予定時間をオーバーしましたが、内容の濃い見学会と講義を終え、3時40分過ぎに解散となりました。

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■H2O阪神・11月12日定例会

(尼崎市立大庄公民館・尼崎市立大庄小学校見学会)

  11月12日(土)、今年度第2回の定例会を尼崎市内にある登録文化財の建物とそれに匹敵すると思われる建物の2か所を見学した。
 当日は、天候も良く、交通の便が悪いにもかかわらず17名余りのメンバーが参集した。午後1時半の開始時間には、ほぼ全員が、大庄公民館前に集合し、本日の案内人の桃谷さん(尼崎市立文化財収蔵庫 学芸員)の解説を受けながらまず、建物の外周から見て回った。

大庄公民館 大庄公民館

 この建物は村野藤吾が設計した旧大庄村役場で昭和12年に建てられたものです。特に、村野藤吾が独立後、初めて設計を手掛けた庁舎建築として記念碑的な意義を有する建築物です。

 その後、庁舎内に入り、まず屋上に上がり、順次下の階に降りていくこととしました。屋上から見渡す景色も、桃谷さんからの解説で、建築当時の景色との違いが想像され感慨い深いものをメンバーの皆様、感じられたようです。

 3階の洋間では歴代の村長の写真もあり、建築物そのもの以外で、歴史を感じるものでした。1時間半近い見学も和気あいあいのなかで終え、次に大庄小学校に向いました。

 大庄小学校は昭和8年に北校舎の西半分、昭和10年に東半分を建築し、昭和11年に南校舎を建築する。いずれれも鉄筋コンクリート3階建てです。

大庄小学校 大庄小学校

 桃谷さんの解説を受けながら2階の講堂部分や3階の一部(2階講堂の真上)を見て廻りましたが、3階部分では桃谷さんすら見たことが無いという新しい発見があり、メンバー全員が驚きと感心の声を挙げていました。それが下記の写真です。
大庄小学校 まず、講堂の上の部分に大きな鉄骨構造の屋上補強の梁が入っていたことと、講堂の一部(部屋になっている部分)の天井裏に木造の屋根構造体があり、しかも何故か段がついている(棟部分)ということ。解説案内人の桃谷さんも、見たことないと驚いておられました。

 

大庄小学校 今回のこの小学校の校舎を見て、参加者が「南校舎」はきれいに化粧直しされているがカラーが問題だ。むしろ北校舎の感じがとてもいいというような感想を述べられていたのが注目される。

 桃谷さんの話から、この建物は今後も維持管理されていくだろうということでメンバーも一安心(というのも小学校の統廃合は昨今では当たり前になってきているので)。できれば、登録文化財にしたいなあ。
 2時間あまりの公民館と小学校の見学も予定通り終了し、参加されたメンバーも満足された様子で、とても素敵な見学会になったと思います。
最後に、案内いただいた桃谷さんにお礼を申し上げ、4時前に解散いたしました。

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■H2O阪神・平成23年度 新年会報告

  平成24年1月22日(日)12:30~14:30 / 場所:がんこ宝塚苑 参加者:6名

・宝塚南口近辺の建物探訪
  当日の午前10時30分に阪急宝塚南口駅に集合したのは4名。米谷さんの案内で早速探訪に出かける。最初に、駅前にある宝塚ホテルを見学。現在では新館がメインになっているが、我々が向ったのは旧館(1926年竣工・古塚正治氏設計)の方である。残念ながら内部を見学することは出来なかったので外観のみ見て廻り、4名でいろいろと意見を交わした。
宝塚カトリック教会 次に向ったのが宝塚カトリック教会。村野藤吾氏設計の建物で1965年に竣工した。
 まず建物のデザインが素晴らしく、きれいな曲線を強調した建物である。運よく、内部も見ることができた。おまけに教会の方に詳しい解説までしていただきましたし、資料もいただきました。解説によればこの建物はクジラをイメージし、クジラの体内が教会の内部ということである。解説を聞き、写真を撮り、外周を見て廻り、結局30分以上の時間がかかった。

宝塚カトリック教会 宝塚カトリック教会

 次に米谷 さん推薦の「正面のない家」(1961年竣工・西澤文隆氏設計)の外観を見て、更に武庫山の建物を見て、新年会会場の「がんこ宝塚苑」に向かった。

  
・新年会
 12時30分を少し廻ったとこで、「がんこ宝塚苑」に到着した4名と先に来ていた2名を入れて6名での新年会が始まった。参加者数が少なかったので少し寂しい気がしましたが・・。まず、乾杯をし、藤原さんから宝塚雲雀が丘の旧安田邸の活用依頼の件を話され、その後、運ばれてくる食事を口にし、ワイワイ、がやがやと様々な話題に花が咲いた。

新年会 食事場所は個室ではなく、他にも数グループが居てましたが、あまり気にならず、時折、前面に広がる庭園を眺めながら食事を楽しんだ。最後に、今年も皆でH2O阪神を盛りたて、がんばろうということで終わった。あっという間の2時間でしたが、参加者全員、満足して会場を後にした。

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■宝塚市雲雀丘・安田邸見学及び雲雀丘散策

日時:平成24年 3月24日(土)

 土曜日の昼下がり、雨が時折降るあいにくの天気であったが、阪急宝塚線雲雀丘花屋敷駅前に10名ほどのメンバーが集合、山手のほうに歩いて安田邸に向かう。鬱蒼と生い茂った木立の中、古びた洋館が建っている。

安田邸 この建物は、大正10(1921)年に建てられたもので、当主の安田辰次郎氏が自ら設計したといわれる。北米の郊外住宅の様式を取り入れたもので、急勾配の屋根や上下窓などに見られる外観は洋風住宅であるが、内部には仏間や和室も配置されている。宝塚市景観形成建築物、ひょうごの近代住宅100選に選定されている。

 現在、宝塚市が所有管理しているが、建物の傷みが激しいため、雨漏りの応急処置が行われていた。安田邸の保存活用について、宝塚市は地元のコミニティ団体と定期的に会合を開き、検討を進めているところである。
正司邸 安田邸を1時間あまり見学したあと、雲雀丘を散策した。この地区には、国登録文化財となっている正司邸や近代住宅100選に選定されている洋館が点在しており、なかなか楽しい、見所の多いところである。小雨がぱらついたりしていたが、坂道を登り下りしているうちに雲の間から青空が見えてきた。

 散策を終え、雲雀丘花屋敷駅前に戻り、午後2時半過ぎに、散会した。