先山千光寺

所在地 洲本市上内膳2132
由緒・沿革
千光寺は淡路島のなかほど、洲本市街地の北西に位置する先山の山頂に建つ。真言宗の古刹で先山と号し、淡路島西国三十三ヶ所霊場の第一番札所として知られる。
創建については、延喜元年(901)に寂忍が寺を建てて千手観音像を安置したことに始まると伝えるが、確かなことは不明である。いっぽう鐘楼に吊られている梵鐘(重要文化財)には弘安6年(1283)の刻銘があり、鎌倉時代には伽藍を構えていたことがわかる。また文保2年(1318)の鉄造宝塔残欠(兵庫県指定有形文化財)が伝わる。この宝塔は如法経を納めるもので、千光寺はこの頃すでに六十六部廻国納経所の霊場として知られていた。「先山千光寺参詣曼荼羅」(国立歴史民俗博物館蔵)は16世紀に作成されたものであるが、多くの参詣人で賑わう当時の様子が描かれており、盛時には本堂のほか仁王門、鐘楼、三重塔、護摩所、経蔵、本坊などが並ぶ大伽藍であったことがうかがえる。
江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の祈願所となり、堂舎の造営・修理は江戸時代を通じて蜂須賀家により行われ、その工事は淡路の御大工で代々仁兵衛を名乗っていた斎藤仁兵衛が担っていた。明治にはいると廃仏毀釈の影響で伽藍は荒廃したが、明治30年に「先山保存會」が設立され、大正期にかけて伽藍の整備が進められた。

本 堂
桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、正面向拝3間、軒唐破風付、銅板葺

千光寺の境内は山頂と石段下の2か所に分かれており、本堂は山頂境内のほぼ中央、奥寄りに南面して建つ。歴代住持の事績を記した「千光寺歴代誌」には元和8年(1622)の造営後、元禄2年(1689)に再建、天明2年(1782)・寛政11年(1799)・弘化2年(1845)に修理を行ったと記すが、側回りや内陣回りの蟇股は19世紀頃のものであり、弘化2年頃の再建とみてよい。その後、明治32年(1899)~35年には屋根を瓦葺から銅板葺へ改めるとともに、向拝の間口が1間から3間へ拡大された(向拝柱根巻刻銘)。
建物は桁行5間、梁間5間で、四周に擬宝珠高欄付きの切目縁をまわし、正面には向拝3間、木階4級を付す。柱は向拝を几帳面付きの角柱とするほかはすべて円柱とし、側回りは足固貫、切目長押、内法長押、頭貫で固めて、組物は柱上出三斗、中備蟇股(ただし正面中央間は省略)を置く。屋根は入母屋造の銅板葺で、軒は二軒繁垂木とし、妻には二重虹梁大瓶束を飾る。

内部は正面2間を外陣とし、後方は中央3間に内陣、両脇各1間に脇陣、背面1間に後陣を配する。外陣は畳敷(当初は板敷)で床を内陣・脇陣より一段低く張り、室境は腰高格子戸引違を建てる(現在、内陣境は建具をはずし開放されている)。内陣は後方中央に禅宗様須弥壇及び厨子を置き、床は拭い板敷として追い回しに畳を敷く。脇陣・後陣との境は無目として開放し、柱上には出三斗および中備蟇股を置いて、格天井を張る。

兵庫県下における近世の天台真言系五間堂は中世仏堂的な遺構が多く、この本堂も外陣・内陣・脇陣・後陣から成る中世密教本堂の平面構成を有する本格的な五間堂で、淡路地域における代表的な真言宗本堂として貴重である。
護摩堂
桁行4間、梁間4間、一重、宝形造、銅板葺、正面前室 桁行3間、梁間1間、一重、入母屋造、妻入、銅板葺

護摩堂は本堂の東に南面して建つ。建物は4間四方の護摩堂の正面に前室が付くが、前室境の柱・虹梁等に風蝕がみられ、また虹梁下端には方立跡の埋木が残ることから、当初は前室がなく現前室境に扉が付いていたと判明する。『淡路国名所図絵』の挿図にも、正面に向拝1間が付く護摩堂を描く。
「千光寺歴代誌」には寛文6年(1666)に再建後、天明2年(1782)及び寛政11年(1799)の修理を経て明治13年(1880)に再興され、さらに同30年~38年に再修されたとある。しかし護摩堂の細部様式は18世紀後半のもので柱等も古く、18世紀後半に建て替えられた後、明治13年に前室が増築され、さらに同30年~38年に屋根が銅板葺へ改められたものと判断される。
建物は桁行4間、梁間4間で、基壇上に建つ。軸部は円柱を延石の上に立てて腰貫、内法貫、頭貫で固め、柱上に平三斗を組む。内部は前室より一段高く板敷の床を張り、背面中央に2間の禅宗様須弥壇を備えて厨子を置く。天井は中央部を一段切り上げて格天井とし、周囲には竿縁天井を張る。軒は二軒繁垂木で、宝形造銅板葺の屋根を載せる。
護摩堂正面に付く前室は桁行3間、梁間1間で、角柱を腰貫、内法貫、頭貫で固め、柱上に平三斗を備える。内部は板敷で竿縁天井を張る。軒は一軒疎垂木で、屋根は入母屋造妻入、銅板葺とする。
護摩堂は、前室の増築に際して正面の扉が撤去され、また屋根が銅板葺とされるなどの改変がみられるものの、全体として旧材が良く残り、江戸時代後期の姿を伝える。また霊場としての千光寺の寺院景観を伝える主要伽藍の一つである。
三重塔(洲本市指定有形文化財)
三間三重塔婆、初重本瓦葺、二重及び三重銅板葺

三重塔は本堂の前方に西面して建つ。塔の建立は当初、石段下境内の現本坊が建つ場所において明和年間(1764~72)に着手されたが、二重目まで進んだ段階で中断・放置され、結局安永7年(1778)に解体された(『堅磐草』)。その後、山頂境内において建築されたのが現在の塔である。「千光寺歴代誌」によると寛政6年(1794)に発願し、その後20年を経て文化10年(1813)にようやく竣工した。なお、この三重塔再建では蜂須賀家の支援がなく、そのため寛政7年には五百人講が設けられ(『堅磐草』)、また高田屋嘉兵衛が世話人となって勧化に尽力していた(高田屋嘉兵衛手紙)。明治38年~大正2年頃には修理が行われ(「千光寺歴代誌」)、二重・三重の屋根が銅板葺へ改められたものと思われる。
建物は礎石上に円柱を立て、各重の四周に高欄付縁をまわす。初重正面には石階6級を付けるが、背面の階は撤去されている。組物は各重とも和様の三手先で、中備は初重・二重を中央間蟇股(初重正面の中央間は省略)、脇間蓑束とし、三重は中央間のみ蓑束を置く。軒は二軒繁垂木で、初重・二重は平行垂木、三重は扇垂木とする。最上重のみ扇垂木とするのは近世に多くみられる手法である。内部は四天柱を立て、来迎壁・須弥壇を設けて壇上には五智如来像を安置する。天井は格天井で、柱内のみ折上格天井を張るが、これは後補である。四天柱まわり及び天井には彩色を施すが、かなり剥落している。
この塔は淡路島島内で唯一の三重塔であり、また平面寸法の逓減率が比較的大きく安定感のある外観をしており、江戸時代後期を代表する三重塔として貴重である。
鐘 楼
桁行3間、梁間3間、袴腰付(竜宮造)、寄棟造、銅板葺

鐘楼は本堂の前方に東面して建つ。建築年代に関する史料を欠くものの、細部様式が明治13年増築と判断される護摩堂前室と似ており、また材も新しいことから明治初めの建築とみてよい。その後明治36年(1903)に屋根が瓦葺から銅板葺へ改められた(小屋裏木札墨書)。
袴腰付の鐘楼で、袴腰は白漆喰を塗って竜宮造とする。下層は桁行3間、梁間3間で、八角柱を延石上に立て、腰組は二手先として縁、高欄を支持する。柱間は各間中央を開放し、内部は床を板張りとして四隅に腰掛けを設ける。上層は四隅に柱を立てて虹梁形の頭貫で繋ぎ、柱上及び中備に二手先組物を置き、文様入りのせがい天井を張る。各柱間は中央を開放して両袖は板壁で閉じ、内部は格天井を張って梵鐘(国重要文化財)を吊る。軒は一軒の扇垂木で、屋根は寄棟造、銅板葺とする。
鐘楼は、竜宮造の袴腰や文様入りのせがい天井など随所に新しい様式を取り入れている点に近代的な特色がみられ、また保存状況も良好である。
<参考文献>
NPO法人ひょうごヘリテージ機構あわじ「先山千光寺建物調査報告書」令和5年7月
